【連載】エピソード1:前人未踏の地を目指す

愛猫とくつろぐボス・記虎悟

僕の座右の銘は「前人未踏の地を目指す」という言葉ですと、農場のボス・記虎悟は言う

誰か有名人か偉人の言葉なのかを聞いてみれば、

この地に入植した先祖のフロンティアスピリットの灯を絶やすことなく、

農場を発展させていきたいと願う気持ちから生まれた自らの言葉だった。

さらに、中学生の頃、常に新しい音楽を追求してどんどん変わっていくビートルズに心酔していた。

その姿勢を貫いたところの凄さに感動し、その探求心こそが音楽だけでなく、何事にも通ずると信じて止まない。

ファームキトラの始まりは、今から128年前(2022年を起点として)に遡る。

明治27年、兵庫県淡路島三原郡松帆村という寒村から大志を抱いて、曾祖父、記虎弥蔵ファミリー6人は長沼の地に入植した。

この時、2代目となる一次郎はまだ3歳という幼子だった。

3月と言えど、まだ雪も寒さも残り、春は遠く、北の大地はあまりにも過酷だった。

北海道の開拓が始まったのは1869年(明治2年)頃からで、25年しか経っていない頃だ。

未開の地と言っても過言ではないだろう。

当時の寒さ、雪の深さは現在とは比べものにならないくらい人々には手厳しいものだったに違いない。

原始林を切り開いて掘立小屋を建て、湿地と荒地を開拓開墾していくが、これでもかっ!!というくらい度重なる水害や冷害に襲われ、泣かされた。

祖父・一次郎はとても器用で、自分で納屋を建て、農機具まで作って地域に貢献するような人だった。

そのDNAを受け継いだ3代目、つまりは父親の敏雄も終戦後は農業に就き、兄弟で自作のトラクターを始めとして便利なものを作ってしまうような人で、

ご近所さんから「発明家」と異名をとっていた。

大学に進学したボスは経済学部で学んでいた。

卒業したら、普通のサラリーマンになろうかな、くらいに思っていた。

ところが2年生の時、急に跡を継ぐことになり、札幌から実家に戻ることになる。

それから半年は長沼から大学に通いながら、来春に退学届けを出すか、どうかを決めようと思っていた。

小さい頃、自分が農業に就くとは夢にも思っていなかった。

「もし、悟が農業を継がないと決めたのなら、やめるしかない」

と父親は思っていた。

決して、イヤイヤ継がされるとか、泣き落されるとか、そういうことはなかった。

家、農地もあり、農業のノウハウを教えてくれる父親もいてくれ、新規就農の厳しさはなかった。

長沼町内にはすでに長沼で農業を継いでいた同級生もいた。

「小さいころから、そのつもりでなかったから独身の頃は農業に身が入らなかった。

5年ほどは父親中心で農場は動き、私は親の手伝いみたいなものでお気楽だったかもしれない。」


この頃、長沼町には若い男女が沢山いて、大人の運動会や学芸会を開催するような「青年会」、農業研修を兼ねた「4Hクラブ」などがあり、

皆で遊んだり、恋をしたりと青春真っただ中だった。

「22~23歳の頃だったかな。農業も家族が後を継ぎたくないと言ったら終わりになるような家族経営ではなく、法人化することが必要だ」

と、4Hクラブの発表会で発言したこともある。

経済中心でものを考えられたのは、経済学部で学んだことが生きたのだと自負している。

人生において、無駄な時間はないということだ。

青年会で妻となる邦子と出会ったのは24歳の頃だった。

6歳年下の邦子は勤めてまだ一年ほどだったが、趣味・嗜好がピタリ一致し、しかもなかなかの美人さんだった。

この頃、コンピューターや家電といった電気製品に興味を持つ女の子は多くなかったなかで、

邦子は電気屋さんに就職したかったというほど、メカニカルなことに興味を持っていた。

お互いに惹かれ合い、出会いから2年後、26歳で結婚。

12月に結婚して、妻はしばらくは会社勤めをしていたが、春には退職して農業を手伝い始めた。

負けん気の強い邦子は日が落ちて、手元が見えなくなるまで仕事に没頭した。

時には用水路に落ちたかもしれないと、畑に探しに行くこともあるほどだった。

間もなく子供が生まれ、しっかりしなきゃダメだと気持ちにスイッチが入った。

このころから玉ねぎなど高収入作物の生産に取り組み始め、営農計画も任されるようになった。

高齢になってきた父親が最前線から退いていき、自分が主流になり始めたのもこの頃からだった。


父親が亡くなり、いよいよ独り立ちの時を迎えたが、もう不安は無かった。

独り立ちした時、目指した農業の一つに「観光農園」がある。

だからと言って、お客様の笑顔を求めたり、笑顔を見たいとは思わないところが、偏屈というか、頑固というか…。

ならば、何が嬉しいのか?と聞けば


「人がやらない方法で成功すること。もし、人がやっていることでも、それ以上の成功を収めること。オリンピックに例えるならば、あまり競技人口のいない種目を狙ってメダルを取る、みたいな感じでしょうか。」


そして、ネット販売、イチゴ狩り、ベジ(野菜)狩り、直売所のオープンと新しいことへのチャレンジは続いていく。

これらは自分の農作物をアピールするのにとても有効だった。

「どちらかと言うと、自分は人見知りするタイプで、基本、人付き合いは嫌い。

黙々と溶接したり、機械をいじっている時間がたまらなく好きだ。もしかしたら、他人と上手くやれないのは何か病気なのかも…と思ったこともある。」

納屋にこもって、何かコツコツと機械とにらめっこしているボスの目はキラキラと輝き、至福の時間の中にいるのが分かる。


はっきり言って、この人柄では観光農園、直売所などは無理でしょう、と思う。

ところが世の中、上手くしたもので夫婦は凸と凹の関係なんだなぁと痛感する。

この夫の欠点をフルカバーしてくれているのが妻の邦子である。

「自分にはない、持って生まれた社交性という才能を武器に、最前線でお客様と向き合ってくれている。もう、感謝しかないですね。」

時にはぶつかり合いながら、時には奇抜なアイディアを取り入れながら、2人でここまで農場を大きくしてきた。

しかしながら、まだ夢の途中である。

さぁ、明日も頑張るぞぉ!! と、気合を入れたところで日没を迎えた。

本日はこれをもちまして閉店です。

次回はファームキトラの農業に立ち向かう姿にスポットを当てていきます。乞うご期待!!

文・佐藤加世子

福岡県出身。小学校1年生から札幌市に移住。
7年間のOL生活
1983年 結婚。夫とヨーロッパ7ヶ月、7万kmのツーリング旅。
翌年からオンボロ・キャンパーで20年間、写真家の夫と共にヨーロッパを拠点に
モーターサイクル世界選手権を取材。ライターとして雑誌に投稿。
2人の男の子を出産、後半の6年間は子連れ取材に大奮闘。
1999年12月 長沼町に離農した農家の古家に引っ越し。
2005年 6月 エッセイ「まんま、夢追い人」発行。
2013年 3月  おだしの美味香を夫と二人で起業。